Bloody Blue

#5「Between Dead and Alive」





 国を越えるための谷――隣国であるリゲツ国では<セパレイト・ヴァレー>と呼ばれている谷で、つい先程ほんの数分間だが血が流れた事を知る人物は当事者以外に知る者はいない。目撃者もなければ、痕跡も残していない。闇稼業のプロが“それ”を行ったのだから、当然のことである。
 加害者は犯行の後、痕跡を全て処分して悠々と何事もなかったかのようにジークアレスト国へと侵入を果たす。そして谷底へと突き落とされた被害者――ルーシェもまた、自らの使命を果たすため、生を諦めることなどしなかった。
 それは一瞬の好機だった。谷の斜面は大きさが様々な突起が数多くあり、落下していく道中、彼女はそればかりを見ていた。やがて手を伸ばせた届く程の突起が下に見えた瞬間、彼女は腹部に突き刺さったナイフを、歯を食いしばって痛みを堪えながら引き抜き、渾身の力を振り絞ってそこへ突き立てる。
 だが――……。

「――……っ!!」

 声にならない悲鳴を口から漏れると同時に、腹部から大量の鮮血が噴き出し、ナイフを握っていた右肩が『ガグン』と嫌な音を立てる。途端、右腕全体に力が入らなくなり、一瞬だけ落下が止まった彼女の体が再び宙へ投げ出される。しかし、その突起があったのは比較的谷底へ近いところだったのが幸運だった。彼女の身体はその後小さな突起に身体をぶつけながら、大した落下速度になることもなく、やがてドサッという小さな音と土煙をあげながら地面へと落下した。
 土煙が晴れる頃には、ルーシェは小さな嗚咽を漏らし、広がる青空を眺めながら指や肘などの関節を一つ一つ動かし、骨が折れていないことを確認していた。案の定、右肩から先が痛みなどの感覚はあっても、自分の意思で動かすことは出来なかった。脱臼は一人で治せる代物ではない。諦めたように彼女は仰向けからゆっくりと半身を持ち上げ、そこで汗のように額の上の方から零れ落ちた赤い液体が目に映り、気付く。落下中にぶつけ、ぱっくりと頭皮が開くほどの大きな傷があることに。

 マズった……傷が浅ければいいんだけど――ルーシェは器用に左腕だけを使って腰のポーチから大きな布切れを取り出し、まずそれから一部を噛み千切ると何重にも重ねて頭部の傷に押し当てる。同時に激痛と立ちくらみのような眩暈がするが、耐えながら応急処置を続けた。重ねた布を傷口に当てたまま、大きな布を三角形に折り畳みバンダナのように頭に巻き、左腕だけで力いっぱい締め付ける。続いて腹部の応急処置を行おうとしたその時だ。

 グルルルル……と近くで獣の低い唸り声が聞こえてきた。敵意を剥き出しにし、獲物に標的を定めている。標的であろうルーシェは腰からナイフを引き抜き、立ち上がると後ろの大きな岩に凭れ掛かりながら辺りを警戒した。右腕は肩からだらんとぶら下がっているだけだ。少なくとも彼女の目に映る範囲では何もいない。だが、彼女の耳にはしっかりと獣の唸り声が響いている。

 不意に、地面に何か光るものが見えた。良く見るとそこには大人の指くらいの小さな穴が開いており、その内部の“何か”が光っていた。それが獣の眼光だったと気付いたのは、直感的にその光に向かってナイフを投げ飛ばした後の事だった。
 一直線を描きながら投げられたナイフが光に衝突した瞬間、何かに突き刺さるような鈍い音とともに“それ”は土の中から姿を現した。見た目は森などに生息するウルフそのものだが、擬態するためかそれともこの土地にいて染み付いたのか、毛色がこの谷独特の土の色である赤みがかった茶色をしていた。亜種、といったところだろうか。

 せっかく上手く隠れていたのに、そんなに唸り声を上げて自分の位置を知らせるなんておバカさん――などといつもなら軽口を叩くのだが、今のルーシェにそんな余裕は欠片もなかった。手負いの獲物と腹を空かせた狩人、獲物である彼女が逃げ切れる可能性は限りなく低い。あくまで“逃げる”という選択肢を選んだ場合だが。

 左目に突き刺さったナイフは刺さりが浅く傷が脳に達するには至らなかったようで、ウルフは暫くの間片目でルーシェを睨み付けていたが、やがてタンっ、と大きく口を開きながらルーシェに向かって地面を蹴った。彼女はそれを避けようともせず、ただ自分の顔の高さくらいまで足を蹴り上げる。
 鈍い音がした。勢いよく飛び掛ったウルフの目に突き刺さったナイフの柄が、彼女の靴に当たっていた。その衝撃によりナイフはウルフの目に深々と突き刺さり、やがて地面にドサッと落ちる。暫く奇声を上げながらパクパクと口を動かしていたが、それも数秒で動かなくなった。

 フゥ、と小さく溜息を吐いたルーシェは絶命して動かなくなったウルフを踏みつけながら、突き刺さったナイフの柄に手を伸ばすとそれをそのまま引き抜き、付着した血を振り払う。ナイフを腰に提げ直すと、彼女は再び岩に凭れ掛かって額を抑えた。

 ヤバい、頭がくらくらする――先程の戦いで傷口を広げてしまったらしく、頭のバンダナに染み出した血が再び目のすぐ傍を通っては地面に落ちて吸い込まれていく。腹部からの出血は応急処置すらしていないため、衣服は既に真っ赤に染まっていた。聞こえてくる風の音と血が地面に落ちる音を聞きながら、ルーシェの意識は暗闇へと呑み込まれそうになっていた。一度落ちれば二度と這い上がれない、底なし沼のような暗闇。そこに一歩でも足を踏み入れてしまえば助かる事はない。身体は沈んでいく一方で、上を見上げれば輝いている光には、手をどんなに伸ばしても決して届くことはないのだ。

 そして彼女は、そこへ一歩、踏み出してしまった。

 気をしっかり持つんだ、そっちへ“堕ちて”はいけない――自分に言い聞かせても、脳裏にはもう助からないという絶望が過ぎる。ここにいてはやがて力尽きるだろう。しかし、希望を見出せるようなものはこの状況で見つかるはずがなかった。
 ただ、時が流れる。数秒か、数分か、数時間か――その感覚すら彼女にはなかった。
ふと気付けば周りからいくつかの声が聞こえる。……獣の、恐らくは先程と同じウルフの唸り声が。もう彼女には目を開く気力もなかった。一匹ならまだしも、複数のウルフを倒す術も逃げ出す術もない。

 ウルフが、地面を蹴る音が聞こえた。

 胸の辺りに何か重いものがぶつかる衝撃に、ルーシェは凭れ掛かっていた岩に頭をぶつけ、不運にも気を失ってしまった。――否、幸運だったのかもしれない。意識があるままウルフ達の餌食になるよりは、遥かにマシだっただろう。

 気を失う寸前に聞こえた一発の銃声は夢か現か、彼女は知る由もない。





To be next...


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