Bloody Blue

#3「On the way to Journey」





 別に気が進まない訳ではなかったが、ルーシェの足取りは重かった。いつもなら10分で辿り着く分かれ道でさえ、15分経った今でもまだそこには辿り着いてはいない。いつもと違うゆっくりと流れていく景色。彼女は別にそれらの景色を噛み締めるように眺めているのではなく、彼女はただ、前だけを見て歩き続けていた。

 やがてようやく分かれ道に辿り着くと、ルーシェは一旦歩みを止め、フゥと小さく溜息を吐く。自分でも分からない身体を重くする脱力感は、ただ彼女をイライラさせるものでしかない。

 なんでやる気が出ないんだろう――と自らに問いかけるも、答えは出ない。思い当たる原因は確かにいくつかある。面倒な仕事だから――……出発前にアギトにからかわれたから――……ヴァルがこの仕事の裏を知っていそうだから――……。だがどれもこれも彼女のやる気の出なさには直接結びつくものではないように彼女自身感じていた。

 分かれ道は、左へ行けば町へ、右へ行けば谷へ通じる道になっている。ルーシェは一旦左を見るが、ゆっくりといつもと違う右の道を歩き始める。目の前に広がるのは陽の光がほとんど差し込まない暗闇に満ちた森。時折木々の葉と葉の間から差し込む陽の光が美しいが、彼女はそんなものに興味がなかった。森の奥の、国を越える為の谷――彼女の目にはそれしか映ってはいない。

 明かりもなしに森の中を歩くのは常人には難しいが、職業柄夜目が利くルーシェにとっては何も問題もなかった。この森に潜む、凶暴なウルフでさえも。国境を行き来するためのこの森だが、人通りがない訳ではない。偶然通り掛かった人間を狙い、食らうのがこの森に生息するウルフだ。本来であれば火が苦手なウルフは松明を片手に歩いていれば問題はないが、それを横着した彼女は当然の如く、腹を空かせた“彼ら”にとってエサ以外の何者でもない。
 気が付けば周りからは鳥たちの囀りが聞こえなくなり、代わりに獣の低い唸り声が聞こえている。囲まれたか――とルーシェは一旦立ち止まり、辺りを見回すもその姿は確認できない。だが彼女が再び足を進めた、その時だ。

 茂みに姿を潜めていた一匹のウルフが強く地面を蹴り、ルーシェの白い首筋を目掛けて牙を剥く。隠すことなく発せられる殺気というものは、例えこの森のような真っ暗な空間でも自らの位置を知らせる愚かなものでしかない。
 ひょい、とルーシェは身を屈めた瞬間、頭上をウルフの身体が通過していき、やがて音を立てて地面に着地する。彼女は条件反射で腰に提げたナイフに手を伸ばし、引き抜こうと――……することはなく、彼女はその手を同じく腰に提げたポーチへと伸ばす。
 任務に支障のある行動はとらないのが暗殺者の基本だ。この場合、ナイフでウルフ達を返り討ちにすれば衣服が血に染まり、後々面倒なことになるのは明白だった。だから彼女は、ポーチから引き出した“それ”のピンを口で抜き、勢いよく地面に叩きつける。

 閃光玉――地面に叩きつけられることで内部の薬品が化学反応を起こし、目を潰しかねないほどの強く眩しい光が一瞬だけルーシェやウルフ達を包み込んだ。目を強く閉じていたルーシェは周りのウルフ達がそれに怯んだことを確認すると、先程と同じ速さで再び歩き出す。しばらくは追って来ないよね――口の中で呟き、彼女は小さく息を吐いた。



×××



「“リィル=グラス”……通行を許可する」

 武装した門番の検問を偽名を使う事で悠々と通過したルーシェだったが、慣れない名前で呼ばれて違和感を覚えずにはいられなかった。検問所を抜けると馬車が通れる程の大きさの道とこれから自らが歩むことになる長い道のり、そして下を覗き込むと引き込まれそうになる程深い谷が広がっている。先程までは暗闇であまり見えなかったとは言え緑色の景色が一変し、オレンジがかった茶色い地面の色の世界に変わる。これから数時間も掛けてこの景色を堪能しなければならないのかと思うと、ただ溜息が出るばかりだった。
 隣国の同業者を殲滅せよだなんて、あのハゲ親父は何を考えてるんだろう。どう考えても裏がありそう――色々と考えては見るが、その“裏”がどんなものなのか想像もできなかった。ただ、骨が折れる仕事には違いないと感じていた。隣国の同業者――“bloody blue”がどの程度の力を持っているのか分からないが、実力があるのは事実だろう。後は実際に調べてみないと分からない。

 ぶつくさと考え込んでいるうちに時間は既に一時間経過して、谷も3分の1に差し掛かった頃だった。ふと前方から人の気配がして前を見ると、一人の若い男が同じように谷をリゲツ国方面に歩いて来ていた。同じく谷を越える人間だが、商人とは明らかに違う。普通の人間が許可証をもらってまで谷を越える理由がない以上、国の遣いなど、重要な理由を持った人間である可能性が高い、とルーシェは感じていた。
 他の人間のことなんてどうでも良かった。……すれ違うその瞬間までは。

 すれ違った瞬間、ふわりと彼女の鼻腔を擽る、嗅ぎ慣れた臭い。

 それは紛れもなく、人間の血の臭いだった。途端背筋が凍りつくような悪寒を感じ、鳥肌が立つ。普通の人間には気付かないだろう。だが、闇稼業に身を染めているルーシェだからこそ、その男から放たれる威圧感をただ見過ごす事はできなかった。

 歩みを止め、すれ違ったばかりの男へと向き直る。その瞬間彼女の目に飛び込んで来たのは、自らに迫り来る銀色の光だった。

「――……っ!!」

 何か言葉を発する暇もなく、彼女は反射的に身を捻り振り下ろされた銀色のナイフの一閃を回避する。追撃を免れるように地面を蹴って後ろに跳躍した彼女だったが、相手の方が速かった。ドスッ、と鈍い音を立て、地面から浮いたばかりの彼女の腹に鋭い衝撃が走る。衝撃にバランスを失った彼女の身体は地面に叩きつけられてそこで気付く。自らの腹部に突き刺さった、一本のナイフを。

「あ……?」

 男の姿を見上げる。その男は、ただ冷笑を浮かべているだけだった。何故突然攻撃されなければならなかったのか意味が分からなかったのだが、言えることはただ一つ。男は確実に、ルーシェを殺すつもりだった。それは計画的な事だったのか偶発的な事だったのか、知る術などない。
 男はルーシェに立ち上がる暇さえ与えなかった。男の放った蹴りは、彼女の身体を絶壁へと追いやり、2、3発でとうとう彼女の身体は地面のない空中へと放り出される。
 何かを掴もうと空へと手を伸ばすが、何かを掴む事は決してなかった。陽の光が眩しく、落ちていく彼女の身体を見下ろす男の表情は逆光になっていてまるで分からない。

 ただ、彼女の耳にその言葉は届いていた。

「ツイてなかったなぁルーシェちゃん。こんなところで俺と出会った不運を呪うんだねぇ」

 小さくなっていく男の姿。落ちていく自分の身体。行き着く先は谷底……まず助かることはない。だが、彼女は決して諦める事はなかった。
 こんなところで、こんなあっけない幕切れなんて絶対に嫌だ――ルーシェは歯を食い縛り、腹部の痛みに耐えながら、ただ一瞬の好機を待ち続けていた。





to be next...


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